オペラの中の真実
『コシ・ファン・トゥッテ』
~モーツァルトにおける愛のかたち~(1)


 『コシ・ファン・トゥッテ』をテーマに開催されたワークショップで行った講演会のための文章。文中の【M-1】等は音楽の挿入を意味する。
 

    1)何故「愛のかたち」なのか。
 世に多くの名作と言われるオペラがあります。そしてそれらのオペラには、作曲家によって、それぞれに、何かしらの特徴があるといってよいでしょう。音楽的な面での独特のメロディーやハーモニーはもちろん、ストーリーにも特徴があります。たとえばプッチーニ。彼の作品を特徴づける要素を一言で言うならば、それは「運命」と言えるでしょう。
 パリの下町、ろうそくの火をもらいに訪れた娘と、たまたま一人部屋に残っていた青年との間に恋が芽生えます。運命的とも言える激しさで二人の心は燃え上がりますが、そのときすでに娘の身体は病に冒されています。病ゆえに二人は別れ、違う道を歩もうとしますが、死の近いことをさとった娘は再び青年の元を訪れ、彼の腕の中で死の時を迎えようとします。二度の別れをあらかじめ定められながら、二人は出会い、愛し合ったのでした。(ボエーム)
 戦いに敗れ、国を追われた父と息子は、遠い異国の地で運命的な再会を果たします。そして、もうひとつの運命的な出会が息子を待ち受けていました。その国の皇女。遠い祖先からの呪縛にがんじがらめにされた彼女は、呪縛から自分を解き放ってくれる運命の人を待ち望んでいたと言えるでしょう。そして二人は「そのために長い放浪の旅を続けてきたのか。それがおまえの運命だったのか。」と問わずにはいられない一人の女奴隷の死によって結ばれるのでした。(トゥーランドット)
 プッチーニを特徴づける要素を「運命」とするならば、ヴェルディのそれは「力(権力)」と言えるでしょう。権力と戦う人の姿、必死に権力にしがみつく人の姿、権力を手に入れる為には悪魔に魂を売ることさえ厭わないような人の姿。それらを縦糸として、男女の恋愛感情などを横糸として、ヴェルディのオペラは成り立っていると言えるでしょう。平民でありながら貴族を抑えて権力者の地位に上り、やがて自らも暗殺されるシモン・ボッカネグラなどは、その良い例と言えます。
 
 プッチーニを「運命」、ヴェルディを「力(権力)」であるとするならば、モーツァルトを特徴づけるもの、それは何なのでしょうか。私は、それを「愛」だと考えます。モーツァルトは、その作品の中で様々な「愛のかたち」、愛する人の姿を描いています。愛することのつらさ、悲しさ、それでもなお愛さずにいられない人の姿、愛する喜び、愛することのすばらしさを描いています。であるがゆえに、私は今日の講演の副題を「モーツァルトにおける愛のかたち」としました。モーツァルトのオペラでは、愛する姿の中にこそ真実が描かれていると考えるからです。

    2)「オペラの中の真実」とは何か。
 歴史的に見ると、オペラは「真実」を描くことをあまり求められては来ませんでした。文学・演劇・美術などに比べて、それに係わる人たちの意識のレベルにおいても、音楽、中でもオペラは「真実」から遠いところにあったように思います。音楽の持つ抽象性も、その要因の一つだといえるでしょうが、王侯貴族の遊びとして発展してきたという歴史が、その大きな要因だと考えられます。オペラハウスとは、貴族やブルジョワが、その権力・財力を誇示する場所でした。宝石や毛皮で着飾った美人を連れて行くところ、あるいは宝石や毛皮を身に着けて行くことによって、自分の連れている男の財力を見せびらかす場所であったと言った方が良いでしょうか。そういった一面があったという事は、否定できないと思います。
 一般的に言えば「真実」から遠いところにあったオペラですが、モーツァルト自身にとっては勿論そうでなかったはずです。それだけでなく、第二次大戦後、瓦礫の中から真っ先にオペラハウスを再建しようとした人々、内戦の極限状態の中でも演奏を続けようとした人々にとっても、オペラの中に「真実」はあったに違いありません。
オペラはパンやぶどう酒の代わりにはなれません。しかし、オペラは時として飲み・食べること以上に人々を勇気付け、生きる力を与えてきたのでした。私の言う「真実」とは、人の心と身体の深いところに働きかけて、それを震わせ、力を蘇らせ、再び生きてゆこうとする力を人に与えるもののことです。パンを手に取り、ぶどう酒をのどに流し込もうとする気力を、新しく明日を生きる力を、オペラは人に与えることが出来ます。オペラにはその可能性があると、私は信じています。
        
    3)人は「真実」にふれて力を与えられる
 オペラの中に「真実」を描こうとするとき、数奇な運命にもてあそばれるヒロインや、祖国のために命をかけて戦うヒーローの姿は、必ずしも必要ではありません。勿論そうした状況の中に人間の真実の姿を描くことも可能ですし、そのような名作も数多くあります。しかし、結婚を間近に控えた若い召使いに横恋慕する夫の姿を見ながらもなお、その夫を愛し続けずにいられない妻の姿。その苦悩する姿に「真実」があれば、その妻の、夫を愛する心が「真実」であるならば、その瞬間、観客は妻の心の震えを歌い手と共有し、自らの心と身体を震わせることが出来ます。生きる力を得ることが出来ます。(フィガロの結婚)
 歌い手がひとつの言葉を発するとき、どうしてもその言葉を発しないではいられないという強い想いに、その言葉が裏打ちされているならば、そのとき歌い手の心は打ち震えているはずです。人から人へ、その心の震えを伝える媒体として、声は極めて優秀なもののひとつです。耳からだけでなく、声という空気の振動が、そのまま直接に観客の呼吸器に作用し、聴き手の心に届くからです。人間の心と身体をつなぐ一番の接点は呼吸にあります。心が乱れたときの呼吸の状態を思い出してみて下さい。お分り頂けると思います。心と身体の深いところに同時に届いた震えは、まるでその人の肩をつかんで揺さぶり「オーイ!しっかりしろ。元気を出せ!」と呼びかけるかのように、その人に作用します。繰り返しになりますが、新しく明日を生きる力をオペラは人に与えることができると、オペラにはその可能性があると、私は信じています。

    4)オペラの中に「真実」を生み出すもの
 では、いったい何がオペラの中に「真実」を生み出すのでしょうか。それは、先ず何といっても作品そのもの、その音楽だと言えるでしょう。演奏の良し悪しの問題はまた別に考えるとして、オペラにおいては音楽が第一番に圧倒的な強さで、その場を支配してしまいます。台本から音楽が生まれるというのも確かなことではあるのですが、観客の立場で考えたときに、台本はほとんど脇役でしかありません。オペラを見ていて、その歌詞の言葉に感動するという経験がおありでしょうか。また衣裳・大道具・小道具・照明など、それらは時として大きく人の心を揺り動かすことがありますが、音楽の持つ持続的、圧倒的なパワーに比べれば副次的なものでしかありません。と言うより、それら視覚的な要素は、全て音楽から導き出されたものでなければならないと言えるでしょう。音楽とかけ離れた、異質な視覚的要素が舞台上に展開されれば、それは音楽が発揮しようとするパワーを削ぐことにしかなりません。両者がその魅力を打ち消し合うという悲しい結果しかもたらさないでしょう。
 しかし、ここで注意して頂きたいのは、私がいわゆる伝統的、オーソドックスな演出を望ましいと言っているのではないということです。と言うのは、伝統的、オーソドックスと言われる演出の多くが実は、その音楽にではなく、台本に基づいているからなのです。多くのオペラ関係者が「歌詞でこう言っているから」とか「ト書きにこう書いてあるから」あるいは「時代考証的にはこうだから」という理由で、オペラの視覚的表現を考えがちです。歴史的にも、ごく最近までそういう考えが主流でした。しかし、この考え方は時に音楽からかけ離れた結論を導くことがあります。それは、作曲家がオペラを作曲した時点で、すでに多くのズレが台本と音楽の間に生じている可能性があるからです。
 たとえば『フィガロの結婚』の4幕冒頭のシーン。バルバリーナが伯爵から預かったピンをなくして嘆いているところを先ず聴いて頂きましょう。ちなみに歌詞の意味は次の通りです。「なくしてしまった…困ったわ…いったいどこにあるのかしら。見つからないわ…従姉は…そしてお殿様は何とおっしゃるだろう。」
 【M-1】
 この曲を聴いて、何も知らないバカな娘が、ただ伯爵にしかられることを恐れて嘆いている歌だと感じられるでしょうか。たしかにこれに続くシーンで、バルバリーナはフィガロに対して「貴方はこのピンには何の関係もない。だから誰にも言わないで!」と言います。しかし、だからといって、それだけでこの曲を歌うバルバリーナを、ピンが持つ意味も理解できないバカな娘と断定してよいものでしょうか。台本から受けるイメージと音楽から受けるイメージのどちらを優先させればよいのでしょう。台本から受けるイメージを優先するあまり、この曲を極端に速いテンポで歌わせようとする指揮者がいます。ですが、それではこの曲の美しさは台無しになってしまいます。では、この曲に続くバルバリーナのセリフを、次のような気持ちから出たものと解釈するというのはどうでしょうか。「フィガロ!貴方がつらいのは分かるけど、でも私も伯爵の言うことをきかないと、もう二度と大好きなケルビーノに会えなくなるかも知れないの。だから伯爵とスザンナの逢引の手助けをする私を許して頂戴。」こう解釈すれば、先ほどの歌も単に伯爵に叱られることを嘆く歌ではなくて、針をなくして伯爵の怒りをかう、すなわち愛しいケルビーノを失うことへの不安、悲しみの歌として理解できます。幼いながらも一途に恋人のことを想うバリバリ-ナが、その恋人を失うかもしれない不安をうたった歌としてこの曲を理解する方が、より音楽の表わしている内容に近いのではないでしょうか。台本(歌詞)から作品を理解しようとするのではなく、音楽の表現しているものを十分に感じとって、そこから逆に台本(歌詞)のひと言ひと言の言葉の裏に潜む意味を探り当てるという作業が必要なのです。そうした作業を通して初めて、オペラの中に「真実」は生まれてくるのです。
                                    (つづく)