『コシ・ファン・トゥッテ』をテーマに開催されたワークショップで行った講演会のための文章。文中の【M-1】等は音楽の挿入を意味する。
5)読み替え
「読み替え」といわれる演出方法もまた、実は音楽を中心に作品を理解しようとするところから生まれてくるものです。「真実」を生み出すための方法のひとつといえます。作曲家は、台本から出発して音楽をつくっていく訳ですが、つくられた音楽は音楽であるがゆえに、言葉のような具象性を持ちません。登場人物の心の動き、おかれた状況などを極めて抽象的に表現することになります。『魔笛』1幕の冒頭シーン。王子タミーノが大蛇に追われて登場する場面の音楽を例に考えてみましょう。先ずお聴き下さい。
【M-2】
このシーンはト書きによれば次のようになっています。「舞台は岩山の風景。ここかしこに樹々が繁っている。両側には道のついた山があり、かたわらに円形の宮殿がある。タミーノがきらびやかな日本の狩衣をまとって、岩山のひとつから駆けくだってくる。手には弓を持っているが、矢はない。蛇が彼を追いかけてくる。」ここで音楽が表現しているのは、蛇でも岩山でもありません。蛇の動きを感じさせる音楽と言えなくもないのかも知れませんが、蛇以外のものを想定できないと言うほどの具象性はありません。ここで音楽が表現しているものは、言ってみれば闇にうごめく得体の知れない悪意、それに対する恐怖、救いを求める悲痛な叫びといったもので、何もそこにオーバーラップする視覚的表現が、大蛇であったり岩山であったり、日本の狩衣でなければならないという必然性はありません。逆に、ト書きにない、たとえばオートバイのヘッドライトとジーンズ姿の若者、無機的な都市空間をこの音楽と重ね合わせて、二重写しに見ることによって、その二つに共通する何ものかを浮かび上がらせることが出来ます。それによって、この音楽が持つ本質、先ほど言った悪意・恐怖といったものをより鮮明に描き出すことができるわけです。「真実」を生み出すことが出来るということです。もちろん「読み替え」を試みる演出家のすべてが、このような考え方をしている訳ではないでしょう。ある種、流行のような状況で頻繁に「読み替え」が行なわれているところもあると聞きます。奇をてらっただけの、本質を伴わない「読み替え」も行なわれているだろうと思います。しかし、それら一部の粗悪品を見たからといって、すぐに「読み替え」を否定してしまうのもいかがなものかと思います。食わず嫌いをしないで、一度そういう舞台も見て頂ければと思います。
6)『コシ・ファン・トゥッテ』の中の愛のかたち
では次にオペラ『コシ・ファン・トゥッテ』を題材として、その中に潜む様々な愛のかたち、「真実」を生きる人々の姿を探ってみたいと思います。『コシ・ファン・トゥッテ』というオペラは、簡単に言うと、二組の恋人同士がいて、その男性の方ふたりが変装して、もう一方のカップルの女性を口説くというお話です。自分たちの恋人が、そんな口説きに落ちるはずもないと思っていた男たちの想いもむなしく、見事二人の女性は変装した男たちの口説きに陥落してしまいます。
女性二人は姉妹で、男性二人は親友同士という間柄ですから、四人で一緒に過ごす時間が長かっただろうということは容易に想像できますし、実際そういう状況をうかがわせるセリフも出て来ます。よく見知っている自分の姉妹の恋人が、たとえ変装したからといって自分を口説いてくる、まして自分の恋人が目の前で自分の姉(妹)を口説いていて、それに気づかないというのは、全くありえようのないばかげた話ではあります。が、この種のバカバカしい筋立てというのは、当時のオペラ・ブッファ(喜歌劇)の流行であって、そういった筋立てに、同じように明るく、軽く、たわいのない音楽をつけて楽しむということはよく行なわれていたようです。
しかし、多くのそうした他愛のない作品が忘れ去られた中で、何故『コシ・ファン・トゥッテ』だけが再び脚光を浴びるようになったのでしょうか。約百年もの間かえりみられる事のなかった作品ではあるのですが、いまやモーツァルト四大オペラのひとつとまで言われるようになっています。そして今日のように盛んに上演されるようになったということは、やはりただの笑い話ではない何かが、そこにあるからに違いありません。音楽の美しさ―やはりそうとしか説明のしようがないように思われます。
当時のオペラ・ブッファに付けられた音楽が、ほとんど、たわいのない単純な、毒にも薬にもならないという音楽であったのにくらべ、『コシ・ファン・トゥッテ』のそれは、たとえようのない美しさに満ちています。たとえば第十曲の三重唱。カップルの男の方二人は、変装して親友の恋人を口説くために、いったん身を隠さなければなりません。急な命令で戦場へ行くことになったといって男たちは恋人にしばしの別れを告げます。突然の別れの後、恋人の乗った船を見送りながら、姉妹と男たちの友人ドン・アルフォンソによって歌われる三重唱、『風おだやかに、波静かに』です。お聴き下さい。
【M-3】
身体は大人だけれど精神的には全くの子供で、どちらかというとチョットおバカな二人が、恋人たちの旅の無事を祈って、果たしてこんな歌がうたえるでしょうか。
次にオペラの幕切れ近く、ねじれた組み合わせのまま、ついに結婚式を挙げることになってしまった恋人たちの、乾杯の歌です。「貴方と私のグラスの中に、すべての思いを沈めましょう」過去の記憶はお酒と一緒に飲み干して、すべて忘れてしまいましょう、という歌です。男性の一方、バリトンのグリエルモは一人「毒を飲めばいいのだ」と歌うのですが、今まさに自分の恋人の姉と結婚しようとしているテノール、フェランドの歌は、自分を裏切った恋人を今からとっちめてやるぞという歌に聴こえるでしょうか。お聴き下さい。
【M-4】
以上二曲を聴いていただいて、皆さんはどのような印象をお持ちになったでしょうか。もちろん『コシ・ファン・トゥッテ』には、もっとたくさんのシーンがあって、その中にはかなりコミカルな部分もあります。先ほど申し上げたように、この作品は伝統的なイタリアのオペラ・ブッファの様式を踏襲するもので、そのために台本にはたくさんのギャグが含まれていて、一見バカバカしくも、軽く明るい筋立てになっています。しかし、そのバカバカしくも、軽く明るい台本に対して、その枠を大きくはみ出す音楽をつけるところが、モーツァルトのモーツァルトたるゆえんなのでしょう。伝統的な、様式化された笑いの型の中に、生身の人間のじつに生き生きとした感情を流し込んでいるのです。みずみずしいその感情のうねりは、オペラの中のいたるところでブッファという枠を越えて、人を愛する心の「真実」の姿を描いています。先ほど聴いていただいた二曲は、その一例です。フェランドは乾杯の歌の中で、偽りと知りながらも自らの恋人の姉フィオルディリージとの結婚に酔いしれていました。
フェランドが本当に好きなのはフィオルディリージの方だとすることによって、他にも幾つかの問題が解決します。第二十九曲フィオルディリージがフェランドに口説き落とされる、このオペラの山場とも言えるシーン。このシーンにおけるフェランドの心情を説明するのに、幾つかの説が唱えられてきました。ひとつは、恋人を親友に寝取られてしまったことに対する怒り。賭けに負けてしまいそうだという焦り。全く逆に、ただ悪ふざけを楽しんでいるフェランドのお芝居だという説、などなど。しかし、いずれの説も僕にとっては納得のいくものではありませんでした。そこで僕は次のように考えました。フェランドは、妹ドラベッラと恋人同士ではあったが、じつは内心姉フィオルディリージに心惹かれていた。自ら同意したゲームの中での事とはいえ、親友に恋人を寝取られるという二重の裏切りに遭って、もって行き場のない苦しみと孤独感を、彼はフィオルディリージにぶつけるしかなかった。ともに苦悩するフィオルディリージに対して、フェランドは変装を解き、自分であることを明らかにした上で、お互いの苦悩を終わらせるために一緒に死ぬことさえ厭わない、貴方と一緒ならいつ死んでもかまわないと、自らの想いを告白する。そう解釈することによって、フェランドのパートの荒々しいまでの苛立ちから、この上ない優しさ、満ち足りた穏やかな喜びへの変化が、初めて納得のいくものとなったのでした。
【M-5】
音楽によって、これほどまでに生き生きと美しく描かれた愛の姿を、オペラ・ブッファ(喜歌劇)の様式の中に矮小化して閉じ込める必要がどこにあるのでしょうか。せっかくモーツァルトが書き残してくれた美しい愛のかたちに、私たちは私たち自身の心と身体を添わせ、モーツァルトの描いた愛を自分のこととして体験し、明日を生きる力をそこに生み出せばいいのです。
人の心は、なんと弱くうつろいやすいのだろう。しかし、それゆえにこそ、人の人を愛する心は、こんなにも瑞々しく輝きに満ちているのだ。弱さゆえに、人は人を愛し、愛こそが人に生命を、生きる力を与える。